【歴史】仏教と西洋文化の交わり③ 南朝

法隆寺所蔵、7世紀に作られた「百済観音立像」。高さは210.9 cmあります。
日本における、南朝様式仏像の代表例です。
画像提供:Wikimedia Commons/撮影者 不明/Public Domain
こんにちは!
戸塚区柏尾町の学習塾、フィロソフィア柏尾教室の相澤です。
前回は、北魏(ほくぎ)の時代に広まった「北の仏教」を見ましたね。
👉前回の記事「【歴史】仏教と西洋文化の交わり② 北魏(ほくぎ)」はこちら
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北の反対側といえば南。今回は、「南朝(なんちょう)」の仏教をのぞいてみましょう。
🌸 南朝ってどんな国?
「南朝」とは、中国の南部にできた王朝のことです。
北の「北魏」とほぼ同じ時代に存在していて、両方を合わせて「南北朝時代」と呼びます。
(中学歴史でもこの名前、見たことがありますよね!)
南朝では、漢民族(かんみんぞく)と呼ばれる、いわゆる「みなさんが想像する一般的な中国人」が中心になって国を作っていました。
北魏のような遊牧民の王朝とはちがって、北の戦乱を逃れて南に移った人々が新しい国づくりを進めたのです。
その結果、貴族的かつ文化的な生活が発展し、芸術・文学・宗教も華やかになっていきました。
🏮 「北」と「南」を、ざっくり比べてみましょう
●北(北魏など)
・遊牧民中心
・質実で力強い文化
●南(南朝)
・漢民族中心
・優雅で華やかな文化
もちろんこれは「傾向」であって、南北の文化がまったく別ものというわけではありません。
でも、こうした違いが仏教の表現の仕方にもあらわれてくるんです。
では、南朝の仏教の特徴を見てみましょう。
南朝の仏教の特徴
南朝の仏教は、北の「雲崗石窟(うんこうせっくつ)」で見られたような見るからに力強い仏像とは違って、やさしく穏やかな雰囲気を持っています。
① 仏像の服装が漢民族風
北魏の仏像は、西域の影響を受けた薄い布のような衣をまとっていましたが、南朝の仏像は厚くてゆったりとした衣装を着ています。
裾が広がり、まるで中国の貴族の服のように見えることもあります。
これは、仏教が次第に「中国の文化の中に溶けこんでいった」ことを表しています。
② 戒律(かいりつ)の整え
南朝の時代には、仏教のお坊さんたちが守るべきルールである、「戒律(かいりつ)」が整理されました。
たとえば、僧侶の生活の仕方や修行の方法をまとめた本が作られたりしました。
つまり南朝の仏教は、「心のよりどころ」だっただけでなく、「社会の中で生きるための仏教」へと進化していったんですね。
🏯 日本とのつながり
さて、ここからが大事なところです。
実はこの南朝の仏教こそが、のちに日本の仏教のもとになりました!
6世紀の欽明天皇(きんめいてんのう)のころ、朝鮮半島の百済(くだら)という国から、日本に仏教が伝えられました。
その百済は、南朝の国、特に「梁(りょう)」と深い関係があったんです。
したがって、日本に伝わった初期の仏教は、南朝の仏教の影響を強く受けたと考えられています。
また、このころ、日本(倭国)は南朝に使いを送っていました。
これが有名な「倭の五王(わのごおう)」です。
「宋書」(そうじょ)という中国の歴史書には、倭の王たちが南朝に朝貢したことが記録されています。
つまり、日本の初期仏教は、「南朝 → 百済 → 日本」というルートで伝わってきたわけですね。
📚 今日のまとめ
・南朝は、漢民族中心の中国南部の王朝の総称で、「北朝」と対になる存在。
・北の仏教が力強く素朴だったのに対して、南は優雅で知的な仏教文化を発展させた。
・仏像の服装は漢民族風になり、戒律の整備などが進んだ。
・南朝の仏教は百済を通じて日本に伝わり、初期日本仏教の源流となった。
というわけで、やっと日本に仏教が来ましたね、、、!笑
次回はいよいよ、日本の仏教事情をまとめて、旅のフィナーレです。
お楽しみに!
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