【歴史】ちょっと細かい中学社会② 東アジアの中の倭国

東アジアの中で、日本はどんな戦略をとったのか。言葉が持つ、強力なインパクトについて。
こんにちは!
戸塚区柏尾町の学習塾、フィロソフィア柏尾教室の相澤です。
前回は、聖徳太子が送った手紙の言葉に込められた意味を見てきましたね。
前回の記事はこちら
今回はその続きとして、もう少し視野を拡げて、「東アジアの中の倭国」という視点で、この時代の日本を見ていきましょう。
他国との関係のなかで、日本がなにを考えて言葉を選んだのか。そこにどんな意図があったのか。
それがわかると面白くなってきますよ!
🗾 3〜4世紀 倭国と朝鮮半島の関係
中学校の教科書(『社会科 中学生の歴史』・帝国書院)には、
「すでに3〜4世紀ごろからヤマト政権(ヤマト朝廷)が登場し、百済(くだら)や伽耶(加羅/から)と同盟を結び、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)と戦っていた」
と書かれています。
当時の日本(倭国)は、朝鮮半島の政治情勢に深く関わっていたのです。
⚔️ 5〜6世紀 緊張する東アジア情勢
では、5世紀以後はどうなったのでしょうか?
朝鮮半島では、新羅が勢力を拡大し、次第に日本と対立するようになります。
一方、中国東北部では、高句麗が隋と対立していました。
こうした構図を整理すると、倭国(日本)と隋が協力することは、周辺諸国の関係から見ても「理想的な選択」だったのです。
📜 聖徳太子の外交のすごさはどこにあったのか?
聖徳太子の時代、日本は隋と国交を開きました。
ここで注目すべきは、「冊封(さくほう)」を受けなかったことです。
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「冊封」とは、中国の皇帝が周辺の国の王を「正式な国王」として任命する仕組みのこと。
任命は基本的に、「上の立場の人が、下の立場の人に対して」しますよね。
つまり、中国を「上位者」、他国を「臣下」とする国際秩序です。
たとえば、朝鮮の高麗や新羅、ベトナムなどは、中国の皇帝から冊封を受けていました。
つまり、明確に上下関係があったわけですね。
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ここで思い出してください。
前回、「天子と対等の存在はありえない」と書きましたよね。
この発想こそが、中華文明が展開した国際関係の基礎であり、当時の常識だったんです。
そんな時代背景のなかで、聖徳太子が、自ら「天子」を名乗った国書は、当時の東アジアの外交の常識を大胆にくつがえすものでした。
日本は冊封を受けずに、隋と対等な関係を築こうとした。
これは、当時の東アジアでは非常に珍しい、特別なことでした。
🌏 倭国の「したたかな外交」
つまり、倭国(日本)は中国(隋)の力を利用しつつも、決して従属しない独自の外交スタイルを模索していたのです。
聖徳太子が送った手紙の背後には、「新羅や高句麗との関係を見据えながら、東アジア全体での立ち位置を確保する」という、明確な意図にもとづく戦略があったんですね。
手紙一通で、ここまでの外交的メッセージを表現した。
もっと言えば、二つの「天子」という単語が、これほど国際関係を劇的に左右するわけですから、言葉の力ってすごいですよね、、、!
これこそが、「倭国のしたたかさ」と言えるでしょう。
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次回は、そんな「国と国とのつながり」を通した学習の重要性についてお話しします。
国と国の関係も、人と人の関係も、すべてはつながっています。
「つながり」を意識して学習すると、理解が深まって面白くなりますよ。
お楽しみに!
出典一覧
- 山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2023年)
- 帝国書院『中学生の歴史』(2021年)
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